フォトグラファー
大塚 健一朗ブログ

大塚の人生 1

2019.10.27

「大塚さんは、以前から写真が趣味だったんですか?」

『いいえ。趣味ではありませんよ。』

「そうしたら、写真を見るのが好きだったんですか?」

『ほとんど見なかったですし、カメラを触ったことも無かったですよ。31歳まで。』

「実家が、写真屋さんなんですか?」
『両親はサービス業ですが、飲食に関わった仕事してるので全く関係ないんですよね(笑)』

「・・・なんで、カメラマンになったんですか?」

一番多い、お客様との会話です。

そもそも、カメラマンになろうと思ってなかったし、まさか人と関わる仕事をするなんて思ってもみませんでした。

一番驚いているのは、自分自身なんです。そう伝えると、質問された方は目を丸くして私を見るんです。

私がカメラマンになった理由は、人との出逢いでした。私のウエディング写真が人生を変えました。

父、母、私、弟の4人家族。父は鳥取県北栄町出身、母は佐賀県出身、東京都東村山で私が生まれました。

数年後、父親の故郷である鳥取県に戻り8回の引越しの後、今の鳥取県北栄町にて暮らしています。

幼少期はスポーツ大好き!勉強が嫌い!賢そうな顔立ちだった様で会う人々から、

『お勉強できそうな賢そうなお子様ですね』と言われ続け、出来る賢い子供を演じていました。

中学~高校時代には両親が離婚。もともと裕福ではなかったため、離婚により究極の生活に追いやられることになりました。

借家の玄関は、鍵がかかってないのに開かないほど家が傾いており、床が抜けそうな廊下、私の部屋の天井は雨漏りで変色しカビだらけ。

冬は窓の隙間から雪が吹き込み室内でも防寒具で過ごす生活でした。

挙句の果てには、暖かい食事が最近出てこなくなったなぁと思っていたら、ガス料金が支払いできずガスが止まられ食卓に食べるものが少なくなったり。

家に帰って電気のスイッチを入れても照明がつかない。あれ?電球が切れたのか・・・と思って見ても電球は切れていない。

他の部屋の照明もつかず、その時にはじめて電気代が支払えてないんだと理解しました。

夜の食卓には、ろうそくの火と水とお塩。

そんな日が続いた時、我慢できず皿を持って外に出て道端の草をむしって食べたこともあります。

近所の人たちはそんな姿を見て、野菜や服などを持ってきてくれたのですが、『ありがとう』と言えず、そんなものいるか!!!

と追い返していました。世間を憎み、環境を憎み、親を憎み・・そして、人を信じなくなりました。

しかし、人前では笑顔を装って良い人を演じていました。

そんないつもの夜・・・

ろうそくの火を見て母親が『けんちゃん、ろうそくの火もロマンチックね。綺麗でしょ』と言うのです。

言葉を失いました。お前のせいで、俺の人生やこの生活になったのによくこの場でそんな言葉が言えるな!!!と。

さらに母親との会話も減ってきた時、食卓に1冊のノートが置かれていました。

【なんでもノート】

母親が大きな字でそう表紙に書いた大学ノート。

ここに思ったこと何でも書くこと!一日一回は書くこと! そんな規則が大きな文字の下に書いてあった。

日中も夜も働き、平均睡眠時間約3時間だった母親とはほとんど顔を合わせなくなってしまったあの頃。

唯一、繋ぐためのノートでしたが当然開く事はありませんでした。

ある時、食卓を通った時にノートが机から落ち、ページが開いていたので、ちらっと見ると日付けと文章が書いてありました。

『今日はどんな一日でしたか?』と返事がないことが分かっているのに、毎日毎日、今日あった出来事と一緒に母の字は書かれていました。

何のために書いているんだ。無駄なこと。そんな気持ちしかありませんでした。

高校受験は、就職に有利な工業高校でした。

進学は全く考えてなく、家から近くてお金をかけずに行ける高校を選びました。

実は、受験も滑り止めは受けず工業高校1本狙いで、もし落ちた時は、母親実家の九州で働くことになっていたのです。

全ては、生きるための選択でした。

工業高校に無事受かり、大好きなサッカーが続けれることが唯一の生き甲斐でした。

男子校の様な学生生活。そこで出会った担任の熱血先生に心動かされることになるのです。

レスリングでオリンピック出場経験の有る担任教師は、想像をいつも超える言動で私たちにメッセージをくれました。